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【比較】「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」を比べてみた! - 週刊イエス
http://yeshua.hatenablog.com/entry/2019/04/10/110929

この記事、おもしろいですね。
新改訳2017・聖書協会共同訳、両方とも読みたくなってしまった…。
この記事を読んで、主語を飛ばしたシンプルな訳文を好む人もいるのか、と思った。
私が旧版の新世界訳のようなくどい文章を好むのは、物語として雰囲気を味わいたいタイプだからなのかな。
やたら繰り返したり、接続詞が多かったりするのに、そこに情緒を感じてしまう。

イエスの「私を愛しているか」問題は、新世界訳では
イエス「わたしを愛(アガペー)していますか」
ペテロ「わたしがあなたに愛情(フィリア)を抱いていることをあなたは知っています」
というふうに、愛・愛情と訳して区別しています。
他の邦訳聖書はここをすべて「愛」と訳しているようです。
ちなみに改訂版でない方の新世界訳ではここにギリシャ語の脚注も付きます。

出エジプト記3:14の、邦訳聖書で一般的な「わたしはある」だけど、この箇所は昔から研究者の間で一致した解釈はなく、新世界訳の「自分のなるところのものとなる」も、そのいくつかある解釈のひとつからこう訳されています。
岩波版は「わたしはなる、なるもの」ですね。

詩編119編のアルファベット詩は、参照資料付き新世界訳には注釈で「折句(アクロスティック)になっており、アルファベット順に配列されている」旨がのべられています。アルファベット詩は119編のほかにもいくつかあり、その都度注釈が加えられています。

ぼちぼち読んでいる新世界訳日本語改訂版。読めば読むほど、割り切り感ハンパないな―と思います。
美しい文体とか、そんなものは視野に入れていません。(それは昔からか)
とにかく初心者が理解できる、現代の若者にも受け入れられやすい、そういうところを目指したんじゃないでしょうか。
主語・代名詞・接続詞などを削ったシンプルさ。たしかに読みやすいです。
ところどころ超訳、怪訳と思える部分もあってもやもやしますけどね。

最近読んだ中で、カチーンときた以下の訳文。
これは現役の頃から、協会がこの聖句をこじつけて引用するから脊髄反射してしまうくらい嫌いになってしまった聖句なんですけど。

ヘブライ10:25
「 仲間と集まることを怠ってはなりません。よく欠席する人たちに倣わないようにし,いつも励まし合いましょう。」

私は「JWの聖書は自分たちの都合のいいように改ざんしている」という正統派キリスト教会の言い分はそのほとんどが論破できるような内容だと思っているけど、今あげたヘブライの聖句は、私自身がイラッとさせられる、JWの出版物の中で都合よく使われそうな聖句だと思っています。
今までもそういう使い方をされていて、それでも聖書単体でみればJWの引用の仕方が極端なだけだ、と解釈できるからよかったんです。

(旧版)「ある人々が習慣にしているように,集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,」

この文章だと、「集会を休むな、怠けるな」なんてふうには受け取りません。これがだいたい一般的な訳文だと思います。
「仲間と集まることを怠ってはなりません。よく欠席する人たちに倣わないようにし」
こうなってしまうと…。想像しただけでもゾッとしました。
様々な事情で毎週は集会に通えない、いろんな立場の人がいるはずです。そういう人のことを考慮しない、無神経な記事があがるたびに当時の私は辟易としたものでした。*その頃は週3で集会がありました。今は2回。
この言葉を書き残したパウロのことまで憎くなったほどです←
このヘブライの聖句が言いたいことは、みんなで集まり、励まし合い、信仰を強め合いましょうということですよね。
まるで集会に欠席する人を信仰の弱い人、不従順な人みたいな目線で語るのはパリサイ人と同じです。

ああすみません。つい当時のことを思い出して、かっとなってしまいました。

「すぐかっとなる人は罰を受ける。」格言19:19

ちょっと新世界訳改訂版を擁護することも一応書いておきます。
このヘブライの聖句、10冊の聖書と比較しての私の感想だったんですが、一冊だけ、新世界訳と同じく「欠席」という言葉を使っている聖書がありました。
フランシスコ会訳です。
「一部の人々の習慣に引きずられて、集会に欠席することなく、むしろ励まし合い…」

ちょっと似ています。
…まあでも、まだやわらかい文章ですよね。
長文になったのでこのへんで。
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