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「守教 下」帚木蓬生・著

自分の感想を読書メーターから。

『ザビエルによって日本にキリスト教の布教が始まってから明治維新まで。
視点は一貫して百姓のイエズス信徒だけど、こうして一つの歴史として見ると壮大で、気の遠くなるような思いに駆られる。
「殉教はいけません」。聖職者たちの言葉が印象に残る。殉教するのは自分たちだけでいいのだと。
イエズス会の思惑や、秀吉や家康が何を危惧してキリシタンを弾圧したかなど、意見はあるだろうが、自分の命を犠牲にして日本で宣教活動に打ち込んだ聖職者、信仰を守り通そうと殉教さえも厭わなかった日本人信徒の志、これは無視できるものではない。』


実を言えば、私自身はカトリックではないし異なる信仰を持っているので偏見の目で読み始めた部分もある。
聖書も持たない、読めない彼らは基本的な教理を理解していたのか。その上での受洗なのか。とか。
読み終わる頃には、彼らの純粋で真っ直ぐな魂の前に細かいことは吹き飛ぶ。
イエスも幼子を見て言ったではないか、神の国はこのような者たちのものだと。

クリスチャン界隈は、リベラルと保守派がいつでもけんかしているし、JWのような三位一体を否定する団体はカルトと呼んで忌避したり罵ったりする。
同じ神を信仰している者同士がいつも争っている。
彼らの最大の掟は愛ではなかったか?
まあ今に始まったことではないのだが。

そういう不毛な言い争いを見るにつけ、真理とはなんなのかと思ってしまうが、私がここ1、2年ずっと向き合っていることは、自分の正しさは自分にとっての正しさでしかない、ということ。
自分にとっての真理がすべての人の真理であるはずもない。
ヨブ記もそれを物語っている。
神の正しさ(義)に勝る正しさはない。ヨブ自身の義もそうだが、ヨブの3人の友人の助言はただ彼を苦しめるものでしかなかった。そこにある義など虚しいものでしかなかった。
自分の考えが正しい、いや自分の行いが正しい。永遠に意味のないループ。

清い心の尊さ。
拷問のむごたらしさ。
いろんな感情を呼び覚まされる本であった。


ところでこの小説は、百姓視点といっても当時の戦国武将もたくさん登場する。(名前だけの場合が多いが)。
この大名とこの大名が、信徒同士こんな繋がりがあったのか、とか、別の一面が見える。
最後まで読み終わると、高山右近はなるほど別格だったのかもと感じる。
個人的には、十字の旗をたなびかせ大阪夏の陣を戦い抜いた明石掃部が印象深い。
明石全登の呼び方のほうで覚えていたものだが…。

昔、高山右近を題材にしたミュージカルをOSKが上演したことがあった。
いや観に行かなかったのだが←
右近役の桜花昇ぼるのCDの中に、「デウスと共に」という曲があって、それを久々に聴いてみたらもう。
気づいたら涙していた。
この小説を読んだ影響であるな。


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